シンデレラの自己肯定がすごすぎる

ここではシンデレラの自己肯定について書いてみます。

 

シンデレラは継母や義姉の嫌がらせを受けながら暮らしていたものの、決して自分を卑下したり、否定したりはしていなかったようです。

継母たちがお城の舞踏会に行った時に、「私も行きたい」と思っていました。

魔法使いだか妖精がチャンスをくれたときも、迷わず行くと答えています。

 

もし自己否定していたら、ここで迷うと思います。

「自分なんかが舞踏会に行ってはダメ」

とか言って。

自分が舞踏会に行けないのは、ドレスやその他もろもろが無いからであって、自分に問題があるのではないというスタンスです。

 

次に魔法でドレスや馬車などを用意してもらいました。

ここでも迷わず利用しています。

「いやいやこれかぼちゃでしょ!こいつらネズミだよね!?私をバカにしてるのか!」

とは言いません。

あるものを最大限利用しています。

 

さあお城に着きました。

王子様に見つけてもらい、ダンスを申し込まれます。

迷いません。

「喜んでお相手いたします」です。

ここまで来て「いやいや私なんかが…」とはなりません。

 

王子様との楽しい時間。

しかし魔法が切れる12時になりました。

シンデレラはここでも迷いません。

パッと切り替えて、全力ダッシュで帰ります。

靴が脱げても気にしません。

「こんな素晴らしい時はもう二度とないかもしれない」という迷いはありません。

もちろん魔法が切れて元に戻ったら大変なことになります。

しかし、自己否定してるとその決断ができません。

さらに「こんな私でも、もしかしたら…」という期待を抱くかもしれません。

これも決断を遅らせ、魔女裁判で火あぶりまで一直線です。

 

結果として誰にも魔法はバレずに、お城にいた人には、「美しい娘が素晴らしい姿で現れ、王子様とお似合いだったのに、いきなり帰った」という出来事が刻まれます。

 

王子様もシンデレラが忘れられずに、ガラスの靴を頼りに探します。

シンデレラは舞踏会の後も変わらない生活をしてましたが、決して自分を否定していません。

自分の屋敷に王子様一行が来たときも、「私にも履かせてください」と出てきました。

「あれは確かに私が履いてたものだが、私なんかがここで名乗り出てもいいのか?私にはこの生活がふさわしいのではないか?」とは思いません。

立ち去ろうとした一行を止めて、靴を履こうとしました。

 

そして王子様と結婚し、めでたしめでたしとなるわけです。

 

シンデレラの話はいくつもの分岐点があり、その全てで「自己否定していたら迷うし、選べない」選択肢を選んでいます。

しかもどの分岐点でも、選択を誤れば即バッドエンドです。

 

なぜ、シンデレラは継母達にいびられても自己否定に陥らなかったのか。

童話はそこらへんの経緯がよくわからないですが、ディズニーの実写版シンデレラでは、その理由があったような気がします。

シンデレラの実の両親はともに彼女をとても可愛がっていたような描写がありました。

きっと産まれた時からこう接していたのでしょう。

そのため、シンデレラの心には、「両親から愛されるから、私は重要な存在である」という確信があったのだと思います。

 

こういった確信は生後2ヶ月あたりから作られはじめ、3歳くらいで基礎ができ、15歳くらいでかたまります。

特に3歳までの基礎が重要で、このときに十分に両親に愛された結果、シンデレラは自分を肯定的に捉えられるようになったのだと思います。

だから継母たちにイビられても自分を否定しなかった。

そう思います。

 

と、シンデレラの物語は「自己肯定とはどういうものか」が学べますが、同時に自己否定についても学べます。

 

え?誰が自己否定してるの?と思ったかもしれません。

実は継母やその娘、つまりシンデレラをイビっていた人たちです。

 

立場を利用して他者を脅し、下に見る。

これは「自分は重要であってはいけない」と自己否定していると起こります。

 

重要であってはいけないけど、それが苦しい。

だから他者を下げ、自分が上がったように見せかけることでなんとか自分を保とうとします。

ドレスにもこだわっていたと思います。

魔法で変化させたとはいえ、元がボロでは着ないでしょう。

かぼちゃの馬車やネズミの馬には乗りません。

すべて自分が重要でないことを隠したいからやります。

自分の幸せではなく、それが最も優先することです。

 

 

というわけで、シンデレラと自己肯定、自己否定についてでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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